JamilaBronte’s blog

わたしの知らないところで、わたしは何かを受け取っている

映画『空白』_感想

はじめまして、こんにちは Jamila です

今回は映画『空白』を見ての感想や考えたことなどを書きたいと思います
つらつらと思いついてままに書くので、読みずらい点も多いとは思いますが最後までお付き合いください

 

鑑賞直後に出た感想は「ドストエフスキーの『罪と罰』だった!」
これでは自分としてもよく分からないので、この点について最後に考察できたらいいなと思います。(はじめて映画の感想をちゃんと文章にするので、どうなるかは分かりませんが…)

 

普段あまり日本の映画はみませんが、友人が今一番見たい映画だと言っていたので行きました。 友のお勧めはなんでもかじってみるのが一番ですね!

 

 

全体的に

まずはじめに書かなければならないのは、古田新太さんの演技についてです

彼の激の飛ばし方が…スクリーンで見ているだけなのに毎回怖さに振るえました。彼の怒りに直接向き合う/対峙する登場人物たちの表情や動き、これらだけで彼らの関係性や立場・考えていることなどが手に取るように伝わってきました。

 

作中、会話のシーンが少ないように感じました

当然小説ではないので、登場人物の心情や考えが本人の言葉として、また作者の視点として文字や音(声)で分かりやすく描かれることはありません。
登場人物らが他者との会話により、相手へ”自分を表現する”場面が少なかったと感じました。特に添田充・青柳直人・花音は、見ていて彼らが本当は何を考えているのかが見えない・想像しにくい場面が多くありました。本当の”自己”に自分自身も気が付いていないのか…ただただ不器用なキャラクターなのか、全ての登場人物が個性的で役割が明確であるためにこの点は興味深いと思いました

 

 

添田充・花音について

花音については映画冒頭で、人柄や性格など彼女を”表面的に知るため”の基礎情報は提示されていたと感じました。とは言っても、それらの場面で記憶に残っているのは、空気のように軽やかに舞う(正確には歩いている)花音を、かなり白に近い色で映し出している。また学校の階段で他の生徒とぶつかりそうになる。花音が担当している作成物の進捗が遅く今井若菜(花音の担任教諭)に注意されている、という3点のみですが。
映画を見ていたときは、これらのシーンがその後どのように繋がっていくのか分かりませんでしたが、その後彼女は死んでしまう = 時間軸をストーリー内で戻さない限り彼女自身としては登場しない ということで、先に彼女のみにスポットを当てた場面を作ったのではないかと考えます。
作中これらの場面を想起したのは、彼女の死亡後今井若菜が生徒らに花音の印象を聞いて回る場面。聞かれた生徒たちも印象には残っていないと答え、いじめがあったかどうかの質問に対しては無かったとし、逆にめだっていたらいじめられていたとだろうと答えています。
鑑賞者の私としては、映画冒頭で花音を”表面的”に知ったと思っていましたが、花音の同級生と同じような”印象しか受けていない”と知りました。

添田充は花音と一緒に生活していた、がしかし花音の”印象”さえはっきりと捉えられていなかったのではないかと感じました

 

花音の死後、父(添田充)は彼女の死んだ理由(万引きをした理由)を探そうと奮闘する。しかしそれは花音の死とそれに直結した理由を知ろうとするが、その”知る”という手段・方法の模索が見ていてもどかしい。
(映画『新聞記者』を見ていないが、これに直結した問題(社会の犯罪への切り取り方など)や制作者側の意図を感じた。)

花音の”死”を知ること = 娘の死を”認知する”こと
このプロセスが映画後半における添田充の言動/思考の全てであったと考えます。生きてそこに存在していた花音を、添田充は彼女の”死”を”認知”するまではっきりと捉えたことは無かったのではないだろうか。

鑑賞者の私は添田充とともに”彼女”を捉え、”彼女自身”を”理解すること”が果たしてできたのか…  映画の構成として、花音の言葉で彼女の本心等が明かされることはなかったし、日記などといったものでも出てこず。そもそも死人に口なしであり、過ぎ去った時間は戻らない。

 

花音という人物を構成する要素は生きている人間である以上確実にあるが、それはどこにあるのか。花音は”自分”を誰に見てほしかったのか/受け取って・受け止めてほしかったのか、どのような”自分”でありたかったのか

花音については、死後添田充が少しずつ読み解いていく。
鑑賞者の私も添田充とともに彼女の生きた”断片”を拾っていく。しかし主点が添田充であるために、冷や汗が止まりませんでした。そして、とても長かった…

そんな中で添田充の人格というか、他者への対応や物事の捉え方がほぼ180度変わる
この転換点がどこにあったのかが分からない…
花音が万引きしたと思われるマニュキュアを見つけた時、はじめて”本当の”花音を知り(万引きの事実(可能性)を知り)、根拠なく”花音は何も悪くない”との”思い”が崩れたのだと感じました
これらの発見されたマニュキュアは、添田充が公園(?)のゴミ箱へ捨てます。この時添田充自身の思い込みを一緒に捨て、他者(野木龍馬など)の捉え方も変わったのではないかと考えます。 

この証拠隠滅のようにも取れる行為は、娘を守りたい・娘を犯罪者にしたくないもしくは自分の考え/思い込みが正しい(娘はやっていない)ことを示すものだったかもしれません。ただ、その後の展開を見るに始めに花音を撥ねた女性(名前が思いだせません…)のお葬式で、その女性の母親の話を無言で聞いていた場面から彼の中に、それ以前に何等かの大きな変化があったのだと考えます。

 

野木龍馬について

野木龍馬は作中全体的にバランスよく登場していたように感じます。
しかし、そのほかの登場人物たちのキャラクター性が強すぎて、残念ながらあまり印象に残っていません…

野木龍馬が映画後半で添田充に対して「父親は船にひとりで乗って帰ってこなかった、だから、添田充と一緒に船に乗りたいんだ」というようなことを言います。
この場面以外でも、全体的に野木龍馬は添田充を慕っており、完全な敵意を向ける・感情的にぶつかる場面は1カ所ほどしかなかったと記憶しています。

野木龍馬の添田充への一貫した”愛”とでも表現できるようなものは、映画中盤で暴走する添田充にも普通の人、人間性があるということを裏付けるのに十分であったと感じました。

また添田充は野木龍馬の言動を通して、花音からは”感じる”ことのできなかった、また学校にて、分かれた元妻(松本翔子)に対して示すことのできなかった”親・父”という”自己”を発見したのではないかと考えます。

 

 

青柳直人について

花音が死ぬ原因を作った人として、また学校側の「わいせつ行為を過去にしている」という情報(本人は否定し、学校側が添田充の目を学校から逸らせるためについた嘘とうい可能性もある)により添田充から徹底的に追い詰められる。しかし彼の表情や態度は事件前と大差ないように感じました。メディアで叩かれ、店舗にいたずらをされた際にも感情を出すことはなかったように感じました。

鑑賞者の私は、彼は何等かの理由により”外”の出来事を正確に把握することができず、自己の感情や感覚を知る・理解する・表現し発信することができない心理的状況にあるのではないかと考えました。
実際のところは、役柄としてどうであったのかは分かりませんが、購入したお弁当が違うものでありクレームの電話をかける場面、最後にスーパーの常連客から声を掛けられる場面から、彼にも感情があると伺い知ることができると思いました。

花音を撥ねた2人が、警察で事情を聴かれている場面は作中に出てきましたが、青柳直人がそのように社会から問われている場面はありません。”警察”という公的権力から問われる運転者とそうではないスーパーの店員(花音を追いかけた人)という対比が、人の死を社会がどのように捉えるのか、”正義”として問うことができるのか、”公的な正しい情報として記録されるのか”否かまたそれによる世論からの印象の違い…という曖昧な点を浮き彫りにしたのだと感じます。

青柳直人とスーパー、彼の父親との関係を打ち明けたことでやっと彼のそれまでの言動の意味が理解できるような気がしました。
添田充と花音の関係がどうであれ、青柳直人からみたら添田充は”父親”であり、青柳直人が後悔の念を抱いている”父”と重ねて捉えているのかもしれないと考えました。異常なほどの添田充の言動に一切反抗せず、言うことを聞き謝り続ける。実際に謝る対象は違えど、死んでしまった者への自分の感情の向ける場所・方法としてこのような言動をしていたのではないだろうか。

青柳直人についての考察や感想が薄いように感じますが、彼の経験やそれに続く心情を想像することは私には難しく、悔しいです。

 

 

草加部麻子について

草加部麻子については、はじめはどこにでもいるようなお節介なおばさんという印象を受けました。 ただ、彼女を通して”正義とは何か”、困っている人を前にしてどのように手を差し伸べることができるのか・すべきなのか等々について考えるべきポイントとして、制作者側からの提案を受けたように感じました。

草加部麻子が添田充・花音へ直接的に影響を与えるような場面は無かったと思います。青柳直人との関係性は「スーパーの店長と従業員」というシンプルなものですが、草加部麻子の一方的好意により作中における彼女の言動を見る視点を変える必要があると考えます。しかし、事件前に青柳直人が草加部麻子をどのように捉えていたのかについて、場面として登場はしますが想像するしかないと思います。

青柳直人が草加部麻子に向かってスーパーと彼の父親の話をする場面、草加部麻子が青柳直人に思いを告げる場面。平常時に彼らの関係がどうであれ、仕事という限られた時間であったとしても定期的に会っている人から受ける影響や生まれる感情は必然的なものであるということがこの2場面から考えられるのではないだろうか。
青柳直人という存在が草加部麻子のある意味”曲がった”正義を正当化するものとなり、彼女が彼に”依存”する理由になっている、そしてその依存を草加部麻子が”恋愛感情”だと”認知”したのだろう。青柳直人はスーパーの外、またスーパーに関連しない場所・人物関係上での様子は閉店するまで描かれていない。よって青柳直人”その人”はスーパーと完全に結びついており、草加部麻子に語った話(父親とスーパー、自分の過去について)が本当に”青柳直人”の全てなのだろう。一方草加部麻子については彼女がスーパーの外で行っている様々な慈善活動の様子が描かれており、そこでの言動からも彼女の”正義”を知ることができると考えます。彼女の”正義”を押し付けられる人はいたが、草加部麻子に直接的に物を言う人物は青柳直人しかおらず、このような意味においても青柳直人は草加部麻子にとって”自分を見てくれている人”でありより離れられないと感じていたのではないかと考えます。

スーパーの閉店が決まりお店の整理をしている場面にて、他の従業員から「頑張っていてえらいよね」というような言葉をかけられます。また「今後はどうするのか」という質問に対して「私を必要としている場所はたくさんある」と返事を草加部麻子はしています。ここまで見なければ草加部麻子は”単なるお節介なおばさんで、たまたま青柳直人の自殺を止めた人”になってしまうと思います。青柳直人の草加部麻子への拒絶が彼女にどのような影響を与えたのかを作品が読み取ることは私には難しくてできませんが、”曲がった正義”もだれかにとっては”正義”にもなる、当時は”正義”として受け止められないものであっても時間が経てば・総合的に見れば”正義になりうる”ということを感じました。また自分自身の存在意義を実感する機会は少なく、自分の選択や行動を疑うこともある、このような世界で草加部麻子のように他者から褒めて・認めてもらえるような言葉をもらえることは大きな喜びのひとつであるし、鑑賞者へのエールでもあるかもしれないと感じました。

 

 

メディアについて

映画『新聞記者』を見てからより深く考察をしたいと考えています。

この映画の鑑賞者は、はっきりと・確実に情報を取りに行ける立場にいることはないと感じました。なのでこの事件に直接関係する人からでもなく、また映画内に登場するメディアの視聴者という視点からも鑑賞はできません。よって作中メディアの言動や、取材ないようの切り取り・報道方法等々に様々な懸念を抱くことが容易であり(とは言っても、鑑賞者も事件や当事者のキャラクターを完全に正確に把握しているわけではないので、事実・当事者らに対する感情などはメディアと大差ないと考えますが)、制作者側による鑑賞者への洗脳のようなものが多少なりともあるのではないかと感じました。

私達は普段”何を求めて報道・メディアを見てるのか”この点についてしっかりと考える必要があると感じました。”国家”がメディアの統制を図ることは様々な点から問題だと考えます。しかし一方で、国からの情報や説明不足、教育現場での齟齬などによりメディアからの情報が国民の判断材料の全てにならないように、非営利団体などどこかがメディア統制、また情報を多様な人へ共有させる場所の管理をする必要があるのかもしれません。
何を悪とし正とするのか、程度や難易度に議論の余地はありますが、国会で法を制定することができる以上、社会に対する国民の視点・意見・感情は一定程度集まり・高まった場合”法”として形に表すこと、また確定した”正義の基準”とすることが可能でしょう。 言い方ひとつであるために、メディアとの関係についても”自分の意見を確立する”ことと”情報を得たときの自分の感情の変化”について気にける必要があるのではないかと考えました。

 

 

中山緑について

名前は忘れてしまいましたが、中山緑の娘が花音を最初に轢いてしまいます。中山緑とその娘は添田充に謝りにいきますが、謝罪を受け取ってもらえません。どのような心情で、どれほど追い詰められ・思い悩み自殺に至ったのかを作品から知ることはできませんが、中山緑の娘のお葬式の場面までの展開は息が止まるようでした。

中山緑について特筆すべきは、娘の葬式にやってきた添田充に対しての言葉でしょう。「心の弱い娘に育てた私の責任だ。娘は死んだがこれからは私が娘に代わって罪をつぐなっていく」というようなことを淡々と、涙も見せず、無表情で立っている添田充の目の前で言いました。なんとも言えません。
娘を自殺に追い込んだのは確かに本人の”心の弱さ”が原因のひとつではあったかもしれません。しかし私にはどうしても添田充の娘への態度も影響していたのではないかと考えてしまいます。中山緑は”娘を失った”という事実の先に、”娘の母親である””彼女をしっかり受け止め・理解したい”という気持ち・考えがあったのではないかと感じました。この点が、”娘が死んだ”という事実のみに暴走した添田充との最大の対比であり、どちらも理解できる、想像できるこの映画で最も難しくかつ考えるべき点なのではないかと考えます。

 

 

今井若菜と学校について

今井若菜としての登場場面は多くなかったと思います。しかし彼女単体での登場はなく常に誰かと関わり、でも彼女自身の考えに基づいた言動であったと感じました。
その他登場人物らとは異なり、自己の決定や言動・思考を他者と共有し、また素直に打ち明ける、しっかりと向き合い「なんとかしよう」という意志を感じました。今井若菜としての”正義”ははっきりと登場しませんが、担当教諭としての自分の役割・立場を”認知”した上で、自分を見失わずに行動しており、理想とすべき人間像なのかもしれないと考えました。

担当教諭であるにも関わらず、花音を注意する・怒る場面が彼女との唯一のシーンでしたが、2時間程度の映画でかつ花音が死んでしまうことを考慮すると妥当なのかもしれません。見方を変えれば、学級内において花音は注意する対象になりうる程度には存在していたと捉えることもできるでしょう。同級生からは捉えられていなかったにしても担当教諭の視界には入っていたということ、学校という”場”が生徒にとってどのような環境であるべきなのかについて考える必要はありますが、花音にとって”自分”を存在させる場所であったならよかったと思います。

花音が”万引きをする(可能性ですが)”までに至った背景や動機は想像するしかありませんが、作品を見ただけでは”学校という場”に大きな原因は見受けられず、ただ単に花音がどのような”人”として受け止められていたのかを映画冒頭で説明するための”場所・場面”に過ぎないのではないかと考えます。

 

 

『空白』について

タイトル『空白』にはどのような意図があるのでしょうか。また『空っぽの世界に、光はあるか。』から何を鑑賞者へ問いかけているのでしょうか。

洋画の場合、 (ある程度理解できる言語に限り)もとのタイトルと日本語にしたタイトルを比較することで”映画”として伝えたいことや主題は同じでも、やはり受け取り方の違い(言語観や文化など)を考慮したことによる違和感、日本人には”どのように”鑑賞してもらいたいのかなどを考察しています。

もともとが日本語のタイトルである場合、かつサブタイトルで問いかけられている場合はどのように受け取るのが良いのでしょうか…

空白

①紙面などの、書いてあるべき部分に何も書いてなくて白い所。
②転じて、あるべきものが何もない、または何も行われていないこと。空虚。

広辞苑

広辞苑を引いてみたところ上記のようにありました。

始めに2つめの意味にある「何も行われていないこと」から”花音は万引きをしていないし、かつ青柳直人も花音を殺していない”ということを想像しました。また添田充は花音が学校でいじめに遭っていたと主張しますがそれも「行われていない」。学校が言った青柳直人の過去の罪も実際には「行われていない」。確実に事実として作中から把握することのできるものもありますが、誰かの想像等により生まれた”根拠のないもの”も描かれます。しかし”事実かどうか”でさえ登場人物、また鑑賞者の誰もが正確に線引きをできるものではなかったと感じています。この作品の中から”空白”そのものを見つけ出すことそれ自体が難しかったと考えます。

続けて2つめの意味にある「あるべきものが何もない」から、花音が生きて生活していた学校において何か”あるべきもの”が”ない”と分かる場面を思い起こしました。
映画の終わりの方で、今井若菜が花音の描いた絵を家へ届けにいく場面があります。そこで初めて彼女としての”場(部活動)”が学校にも存在していたこと、また絵を描くということを通して彼女の”思考・思い”がそこにあったことが証明されたのだと感じました。一見感情に任せて”ない”と受け取っても、時間をかければそこに何かが”存在していた”ことに気が付けるものかもしれません。”空白”ではなかったのだと。

1つめの意味における「紙面など」の”紙面”を追及することはしたくありませんが…これをキャンパスとした場合どうでしょうか。
添田充は花音を理解するために絵を描き始めます。彼自身で”空白”であった花音のとの「何も書いていなくて白い所」を埋めていきます。絵ははっきり言うと上手くありません。しかし不器用ながらにも、花音として実在はもうしなくとも寄り添おうとする強い気持ちを感じました。添田充は青い空にイルカの形をした雲が浮いている絵を描きます。今井若菜が届けた花音の絵も青い空にイルカの形をした雲が浮いているものでした。絵の視点は異なり添田充は船上から、花音のものは海岸から。ここで添田充は花音と同じ時間を生きていたこと、同じものに興味をひかれたという”家族の繋がり”のようなものを感じたのではないかと考えます。
結婚したから、生まれたから…単なる事実のみによって”空白”を完全に埋めることはできないと考えます。偶然による関わりの中で、多種多様な筆記用具を使いながら塗り重ねていく、書き足していくことによってのみ”空白”ではなくなるのだと思います。

 

 

最後に

添田充については作中のほとんどで発狂しているように受け取りました、しかし最後に花音の読んでいた少女マンガをよみ「理解できない」と言っている場面には思わず笑ってしまいました。

全体を通してかなりアップダウンの激しい作品だと感じました。
大枠としてのストーリーは難しいものではないにも関わらず、次に何が起きるのか・どのような展開が待ち受けているのか全く想像することが出来ず、非常に緊張感のある約2時間でした。 ホラー映画ではないものでここまで冷や汗をかいたのは初めてです。

まだまだ考察したい場面や人物もありますが、ここで切り上げたいと思います。

 

 

罪と罰

ラスコーリニコフ(主人公)の言動や心情・思考、家族や友人関係・環境など全てから彼が影響を受けての奇行・葛藤・苦しみ… 
それらが添田充の内面、本人さえも気が付いていない何かと同じであるように感じたのだと思います。

ひとりひとりが苦しみ・もがいている そんな中でも他者との関係を断ち切り、ひとりになることはできない。切り離すことも逃げることも容易でない。
ひとりになるには、すべてから逃げるにはどのような形であれ”死”しかないのかもしれない。

どのようなことで、タイミングで、自己・他者・世界に対しての味方が変わるのかは人それぞれだと思うが、なにか些細なことで相当な苦しみから救われることもあるでしょう。

ラスコーリニコフは最後の最後に”神”を感じ、救われたのだと思います。
『空白』に登場する全てのキャラクターがそれぞれの苦しみ・葛藤から解放されるきっかけが作中ちりばめられていたのだと感じました。

 

 

 

 

ここまで読んでいただきありがとうございます
500字程度だと思って居たのですが、こんなに書くとは…

 

またどこかでお目にかかれたら幸いです
Jamila